誰が 捧げる 誰に?
今日はCEDARWOODで2月に開催されるに開催する上野 英里さんの個展
“Who serves Whom?”
誰が 捧げる 誰に
のご案内です。
社会人経験を積んだ後、制作をはじめ
2019年に名古屋芸術大学洋画科を卒業。
Youtube上に違法にアップロードされた舞台や映画、報道番組のワンシーンをドローイング。
2019年に名古屋芸術大学洋画科を卒業。
Youtube上に違法にアップロードされた舞台や映画、報道番組のワンシーンをドローイング。
tittle:「赤いカーテン」
舞台という芸術作品を違法に盗撮するという卑しい行為。
でも、とても人間らしい行いを美しく作品として昇華。
上野さんの作品には舞台袖に忍び込み、覗き見する子どもの様な純真さと。
また、劇場の奥の2階席より熱狂から離れ、冷静に舞台を眺める観察者や批評家の様な知性が秘められています。
以下、上野さんの本展におけるキャプションです。
“Who serves Whom?”
誰が 捧げる 誰に
「教えてくれ、私たちを使用人と呼ぶ前に、誰が誰に捧げていた? そして、考える、あなたの時代で、誰があなたを永遠のものにするだろうか?」劇アマデウスでサリエリは言った。
「誰が誰に捧げる?」、あなたとわたし、どちらがどちら?
わたしは画家としてあなたに捧げているだろうか?
並ぶ絵は休日を充実させ、あなたを文化的なアート人にしている。
もしくは、あなたが観衆としてわたしに捧げているだろうか?
作品は注目を必要としている。
あなたがいなかったら「(自称でない)アーティスト」でいられない。
それでいて、永遠に祝福され、語られていくのは一体どちらだろうか?
誰も知らない。わたしは決められない。あなたもわたしも未来は見えない。
だったら、何が理由でわたしは馬鹿みたいに絵をかいているのか。
理由は沢山ある、お金、有名になりたい、評価されたい、他にも色々。
ぜんぶの理由はわたしのうぬぼれた妄想かもしれない。
“Who serves Whom?”
誰が 捧げる 誰に
“Tell me, before you call us servants, who served whom? And who I wonder, in your generations, will immortalize you?”, Salieri said in the play AMADEUS.
“who served whom?”, you and I, which is which?
Am I serving you as a painter?
My works might entertain your holiday, make you a cultural artsy person.
Or else, are you serving me as an audience?
My paintings need your attention.
It’s impossible to declare “an actual artist” without your presence.
Then, which is going to be cherished, remembered forever?
No one knows. It’s not for me to decide. The future is not ours to see.
So, I’m painting like a fool for what cause?
There are many causes, money, recognition, reputations, and so on.
Perhaps every cause is my delusions of grandeur.
以上。
自分はどうあるべきか。
自分は何者であるのか。
誰もが悩み苦しむ問題。人生の意味とは何か。
作家の妄想(葛藤)は作品にも少なくない影響を与える。
むしろそれが作品を作る原動力に。誰かを突き動かすものになるのだと僕は思う。
作家自身を何者かにしてくれるのは
作品の観賞者(他者)の存在がなければならない。
他者がいなければ作家はアーティストを名乗れず
自分自身が何者でもいられなくなってしまうのではないかという虚無感を。
上野さんは作品を通じ、訴えかけている。
tittle:「赤いカーテン」の制作風景。
上野さんのSNSから引用。
作家と作品。作品と観賞者。観賞者と作家。
という作家を渦巻く相関関係は奇しくも僕らの人生にも置き換えることが出来る。
それは家族であり、友人であり、恋人だ。
近しい誰かに必要とされることで
自身の存在を強く認識することが出来る。
自分自身でいられる。
なので誰かにこう思ってもらいたいというだけで
人は変わることが出来る。それは人間の多様性だ。
人は誰かに必要とされたいという根源的な欲求を持っている。
それが承認欲求と言われるものであり。
それを満たすためには誰かに必要とされる人になりたいと願う。
誰かに必要とされることが仕事をうみ、人間社会を形成している。
誰かに必要とされているから今の僕はいる。
社会に溶け込めている。
仕事があり、住む場所があり。
当たり前で、幸せで、何事もないが特別な人並みの生活を送ることが出来る。
僕は、僕でいられる。
tittle:「勇敢ね」
だが、ひとつ恐ろしい疑問が生まれる。
僕は。
あなたは。
自分自身という舞台を生きる演者になってしまっているではないか。
ここでたまらずワイルドの言葉を引用したくなる。
ほとんどの人々は他人の人生を生きている。
彼らの思考は誰かの意見。
彼らの情熱は誰かの引用。
彼らの人生は誰かの模倣である。
以上。
本当の自分は何者なのか。
僕は誰なのか、誰かなのか。
他人と自己の境界線があやふやになるとき
自分自身の存在が不気味に思える。
ここで引用を持ち出すことさえも。
他者という存在がひっそりと僕の背後に佇んでいる。
tittle:「ウェルカム」
Eri Ueno Solo Exhibition “Who serves Whom?”
誰が 捧げる 誰に
オンラインショップでも会期中のみですが作品を展示販売させて頂きます。